自然治癒力について 3

4回のオステオパシー手技で、その男はすっかり元気になりました。


しかし、それから何か月もたったというのに、主治医はまだかれに精密検査をすすめていました。


その医師は男の心臓そのものに異常があるにちがいないと確信していました。


そして、男の症状が西洋医学以外の治療で治ることなどありえないと信じていました。


・・・もうひとつ紹介しましょう。


2、3か月前にきた男の子のケースです。


母親が妊娠中にひどく具合が悪くて、その子は生まれたときにほとんど空気を吸う力もなかったのです。


読者にもいずれわかることですが、それは生まれ落ちた瞬間から苦しい人生を生きる運命を背負ったことに等しいといっていいのです。


生後すぐに発病し、それからも肺炎など、いろいろな病気と縁が切れなかったのです。


自然治癒力について 2

わたしの患者にはそういう人が多いのですが・・・


どの医師からも満足な答えが得られないとわかった時点で、その男もわたしのところにきました。


しらべてみると、男はずっと昔に左ももの骨を折っていることがわかりました。


手術のあと、りっぱに線維組織が再生してきましたが、そのことによってある筋肉に支障をきたし、それが首の筋肉に影響をおよぼしました。


首の筋肉が縮まったか、あるいはふにゃふにゃになったかして、首の骨をまともに支えることができなくなりました。


・・・ともあれ、男のからだはバランスを失い、頭蓋骨の底に近い部分の背骨がゆがんでいって、そこから心臓につながる神経を圧迫しはじめました。


それで心臓がうまくはたらかなくなりました。


心臓の病気というより、ずっと昔の脚の事故が原因だったのです。


自然治癒力について

何か月か前、45歳の男が差し迫った声で助けをもとめる電話をかけてきました。


その数か月前から心臓発作のいろいろな症状に苦しんでいますが、何人かの医師に診てもらってもいっこうに楽にならないといいます。


困ったことに、医師による検査や心電図ではその男の心臓になんの異常も発見できないというのです。


ほとんどの医師は生化学的な検査や機械に頼りきっています。


だから、検査の結果が正常値を示すと、医師はわけがわからなくなってしまうのです。


男が心臓以外のところも診てもらうべきかどうかをたずねると、その必要はないといわれました。


心臓に異常が発見されれば心臓を治さなくてはなりませんが、きみの心臓は異常とはいえないというわけです。

現代のアメリカン・ドリーム 2

他方においてコングロマリット運動は、このように既存の法体制に対する挑戦であったばかりではありません。


こうした法体制の上に築かれた既存のビッグ・ビジネス支配体制に対する挑戦でもあったということができます。


しかもそれは在来のビッグ・ビジネス体制とその官僚化に対し、一群の野心的企業家が社会下層からはい上がってきて挑戦する機会を与えたのです。


19世紀後半において、徒手空拳の泥棒貴族とそのあとに続いた企業家たちが、アメリカ資本主義発展の導火線に火を点じたのと似ています。


これらコングロメレーターたちが、GM、GE、USスティールの支配的ビッグ・ビジネスが、そのおごりと退廃をさらけ出すなかで躍進を続けたことは、社会的には一種の爽快感をさえ与えました。


朝鮮戦争後にはじまる「静かなジェネレーション」において、安定的低金利と株式市場の活況は、「多様化の種が発育するような類いの土壌と環境」をつくり出しました。

現代のアメリカン・ドリーム

さらに重要なのは、司法当局がコングロマリットの挑戦に対し、大きな衝撃を受けたことです。


たしかに伝統的な寡占理論は、企業の市場行動やその成果を、単一の産業における市場構造支配関係ilから説明するものでした。


これに対し、コングロマリットは明らかに多市場、多産業に合併を通じて進出するものであり、法の盲点を突く行動でした。


ミュラーは


「コングロマリット企業の発展は1930年代以来の経済学の任務を支えてきた伝統的産業組織論を著しく陳腐化させるおそれがある」


・・・ということを認めています。


司法当局が理論的立場を立て直し、コングロマリット運動に対する立場と規制を明らかにしたのは、ようやく1968年のことでした。


ミュラーの言葉にもあったように、企業の巨大性とコングロマリットを結びつけることによって・・・


つまり「コングロマリット的巨大性」が経済力の集中を高めるものであるという根拠に立って、コングロマリットに対応することになりました。

コングロマリットの分類 2

コングロマリットとして代表的なLTVの場合は、その典型です。


同社はどれといった専門業種は持たず、エレクトロニクス、スポーツ用品、精肉、ミサイル、航空輸送、鉄鋼、レンタカー、薬品、電線、ステレオ、事務用品など、多様な製品の製造とサービスに関係しています。


コングロマリットの動きは、前述のような司法当局の反トラスト法の強化に対し、その法律の基本的な欠陥を突いた企業側の対応であったことはたしかです。


このことは伝統的な産業組織論、とりわけ寡占理論に拠り所をおいた司法当局に対する挑戦でした。


元FTCのミュラー教授も、コングロマリットのような企業形態は決して目新しいものではないとしつつ、


「目新しいのは、経済の多くの局面でコングロマリットはもはや例外ではなく、規範となっているということである」


・・・と認めています。

コングロマリットの分類

FTCは、コングロマリットを3つに分類しています。


第一は地理的市場拡大型です。


同種製品企業間の合併ではありますが、地理的に市場が遠く離れている場合です。


たとえば、2社の業種が同じ牛乳加工業ですが、一方はその販売市場がニューヨーク、他方はシカゴである場合などがそれにあたります。


第二は製品拡張型です。


基本的には関連する製品ではありますが、相互に直接の競争が起こらない企業間の合併がこれにあたります。


たとえば液体牛乳業者とアイスクリーム製造会社の場合がそれです。


第三は純粋コングロマリット型ともいえるもので、合併企業間の業種がまったく関係のない産業分類に属する場合です。


たとえば、電話機メーカーとレンタカー業者、航空機メーカーとホテル業者といった組み合わせです。

エーゲ文明 4

ところがアメリカのブレーゲンは疑いを抱きました。


彼はヒッサリクの丘をもう一度、長年をかけて厳密に再検討します。


その結果として、戦火にあっているのは第6市ではなくて、第7市Aと改められました。


そして、トロル、戦争の有無はなお決定しにくいですが、第6市と第7市Aはともにホメロスの詩の舞台にあたるミケネ時代にあたります。


これが今日の結論です。


つぎにミケネ時代もシュリーマンによって再生しました。


トロイアの第2回発掘に着手する前々年、1876年にミケネに考古学の鍬がいれられました。


ホメロスによると、ここはトロイアに遠征したギリシア軍の総大将アガメムノンの城があった所です。


ペロポネソス半島のアルゴス地方の東隅にある低い丘がその遺蹟であることは前からわかっていました。


そこには巨石で築いた城壁の名残りがみられ、その城門の獅子門も土砂から現われていました。


しかしこれまでにそこを発掘調査しようとする人はなかったのです。


いまシュリーマンは、獅子門を掘りさげて城内に進みました。


そのすぐ右側にある土砂の堆積が彼の目をひきます。


その土砂を取除くと、石板で囲まれた円形の地域がありました。


そこを深く掘ると、5つの竪穴墓が見つかりました。


エーゲ文明 3

大小さまざまの杯、耳飾り、腕輪その他の装身具や軟玉をつかった斧もありました。


シュリーマンは、これこそトロイア王.ブリアモスの財宝だと判断しました。


これらの美術品は、その形も意匠もこれまでに知られていたギリシアの品々とはちがうし、また他の揚所から出た陶器も類のないものでした。


これこそトロイア文明の証拠品であり、またエーゲ美術の最初の出現でした。


シュリーマンは驚喜して、トロイアの実在とホメロスの詩の現実性とを、誇りをもって世界に発表します。


しかし学界からの反対は強く、また出土品はホメロスの詩のなかの道具などと一致しない点があるのに、彼も気がついてきました。


そこで第2回、第3回の発掘が、精密に慎重に行われました。


この時にはドイツの考古学者W・デルフフェルトの協力があり、ことに後者によって、次のような結論がえられました。


ヒッサリクの丘には一つの時期ではなく、太古からローマ時代にかけて9市があったこと。


さきに発見された財宝は下から数えて2番目の層、すなわち第2市のものであること。


ホメロスが歌っている時期は第6市であることが確定され、また各時期の年代もほぼ設定されました。


・・・この決定は学界にも認められて、動かないで50年ほどが過ぎました。

エーゲ文明 2

エーゲ文明再生の幕を開いたのはギリシア先史時代の開幕者ハインリヒ・シュリーマンでした。


1871年10月からダーダネルス海峡に近い小アジアの小さなヒッサリクの丘で発掘をはじめます。


彼はトロイア戦争を歌ったホメロスの詩「イリアス」は実際の出来事であり、トロイア城は実在したと信じていて、このことを実証しようとしたのです。


当時は、ホメロスの詩はただ創作された文学作品であり伝説によるとしか考えられなかったからです。


発掘は翌年もその翌年も続きましたが、壊れた城壁とわずかな建物の跡と陶器が得られたにすぎなかったのです。


しかしシュリーマンはこれで、トロイア城肚は実証されたとして、3年にわたる仕事を一応終わるつもりでいました。


その終業の前日、1873年5月15日に、深さ10mも掘りさげられた城壁ぞいの土のなかに異様に輝く品に彼の目がとまりました。


そこで人夫を退けて彼自らが掘り出したのは、予期もしない豪華な数々の宝物でした。


・・・その多くは黄金製でした。

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